そういえば

色々考えてそうなブログ

平手友梨奈の関しましてについて

 とにもかくにもまず平手さんはゆっくり休養してください。それだけだ。ただ運営への不満が収まらないのでこうして書いている。

 明日からの全国ツアーの前日である今日、平手が出演見合わせすることを発表したのはまじでクズ過ぎる。

 平手がいないことで全国ツアーの箱が埋まるか不安なら、最初から平手が出ないことをアナウンスして、箱を変えても変えなくてもそれでも来ることを選んだファンに平手のいない欅を見せろよ。そうしてコツコツ平手のいない欅を作っていかなきゃ、平手はいつまでも重圧がすごいままだし欅はずっと平手をセンターにする表現しかできないんだよ。

 あまりにも平手がすごかったのは分かる。信者と言われるのは嫌だけど、心底彼女に惚れている。そして欅が好きな人なら、多少なりとも平手を見て何かを感じたのではないかと思っている。だって彼女が今までずっとセンターを続けてきたのに、売り上げも露出も、世間への評判も、分かるひとにはしっかり伝わってて人気が継続しているからだ。

 でも、彼女の体はもうぼろぼろだ。自分を顧みないパフォーマンスだからこそ若さを誇張する日本の性質と相まって、破滅的に見える表現で人々の心を揺さぶり人々の目を引き付けた彼女はその代償を一人だけで取らされている。運営は彼女を要所要所にだけでもいいから使ってその後一定期間ごとに休みを設けている制度にしているかもしれないが、それではけがは悪くなることはなくてもよくなることはない。むしろ悪くなるのが先延ばしになるだけだ。(自分がぼろぼろになると分かっていても良い作品を見せるために結局やってしまうと平手はインタビューで言っている)

 私が悲しいのは、まずいつまでたっても前日に欠席の連絡を持ち出す運営だ。平手の存在の大きさを知っているのに、ファンが彼女を見たいと思っているのに、自分らの都合かなんだか知らないがチケットを売りさばくためだけに彼女の存在を使うな、不愉快だ。次に悲しいと感じるのは、欅のライブを楽しみにしているファンの人たちの気持ちだ。どうしても映像でもMVでも平手の配分が大きく、少なからず受け入れている部分があるのに、いきなり休みだと言われたら落胆するに決まっている。また、そうして成り立ってしまっている欅に対してもすごく複雑な気持ちになる。平手が全てではないのに、曲の主人公として彼女は酷使され、他メンバーは見守ることを強要される。どうすればいいだろう、でも私は、そして平手推しの人々もきっと彼女が作り出す物語に夢中なのだ。さらに、このことについて乃木坂や日向坂のファンがきっと何かしら言うことにも悲しい。東京ドームは欅には早すぎるとか、欅のせいで日向のメンバーは出番が少なかったとか、そう言っている人たちは、平手みたいな爆弾を抱えてかわいそうwとか、欅ぼろぼろじゃんwあんな情緒不安定グループのどこがいいのwとか言っているのかもしれない(書いてて悲しくなってきた)。坂道グループのファン同士仲悪い面が目立ちやすくてつらい。他を貶めることでしか自分を持ち上げられない思考がかわいそうだし、そう思ってる人が社会に住んでるということはそういった価値観で生活しているのだからそれによって現実でも誰かが悲しい気持ちになっているんじゃないかと思うとさらに悲しい。

 なんか悲しい悲しい書きすぎたが、あまりにも運営の唐突すぎる知らせに本当にちんぷんかんぷんになっている。ばかか。ファンを大切にしてくれ、そしてメンバーを大切にしてくれ。

 

 

 

 そしてやはり、自分の感情にも悲しく思っている。彼女の感情の迸りのままに踊る姿に夢中になり、それで体がぼろぼろになると分かっていても、出てほしいと思う自分がいる。むしろそんな苦痛に歪む表情だからこそ、真に生きている実感を持って見ている自分がいる。そんな自分がいることがとても悲しい。一人の人間が、人間とはこういうもので、その本性のような、足がちぎれても行きついた先を見たいと思っている。痛々しく思いながらも、大事を取ってほしいと思いながらも、そういった感情によって彼女ひいてグループを捉えだした自分は、何よりも原点に存在しているのだ。

本読むとき頭使ってないじゃん

 最近思った。本読むとき頭使ってない!!

 時期によってやたらと小説が読みたかったり、評論を借りたりする。問題が付いているような本、想像力を働かせるような小説、でも知識だけの本って何も考えてなくね?

 インターネットが発達してから自分の頭で考えるわけでもなくすぐ調べてそれで納得する人が増えた、だから考える力が大切っていうけど、本だってただ著者の主張読んで論証読んでへぇ~と思って覚えたりするだけじゃん。何の意味があるの?ネットはただ外部のアタマのようなもので、本読むのは内部のアタマ、自分の脳に蓄積するだけじゃん。何が違うの?一緒じゃん。調べて考えないのと、読んでそのままにするの、同じように意味ないじゃん。自分の頭で考えてないという点で。むしろ調べたほうがすぐ分かるし調べるスキル付くし時間短縮してるじゃん。もう活字を追ってるだけですごいみたいな風潮やだ。とは言っても確かに本の方がより密度が濃くて、文字の絶対数が多いもんね、時間かけるからしっかりするんだろうし。でももうそれも違うのかもしれない。ネットだって個人が目立てるようになったし、固定で見てくれる人がいてくれれば、時間が経っても出したものは見てくれるだろう。じゃあ本の意味は?やっぱりものっていいよね!と私は思う。でもそれも所持してる気持ちを満たすためことに慣れてるだけかもしれない。

 とにかく思ったのは、本読んでると頭よさそう~とか言われるけど全然関係ないしむしろ著者の受け売りで自分が形成させられるし(しかも筋が通ってるから逆に厄介というか)これも人間の在り方の一つでしかないんだよな。いや別に超人になりたくはないけど。ネットと世間話で自分が作られるか、それなりに整った世界の見方の中で自分を作らされるか?

 あ、でもやっぱり、私もだけど主観まみれだし、でもこれだ!と思ったものを信じて、それで世の中がよくなるって思ってるからそれを身に付けたいし広めたいし、そうやって自分の関わってない領域で、頑張った人たちが出したものを信じて身に付けて、そうやって生きて行けばいいんだろうなあ。本の感想を書いた方がいい!とか、アウトプットした方がいいとか、別にせんでも記憶に残ったんならどっかで出てくるし、もうそのインプットを自分の中で通過させた時に何が生まれるか見たいとか、なんかもやもやするから書いてみたらめっちゃ長文になったとか、ほんとにすごくて書きたいとか、それぐらいでいいじゃん動機。

天気の子、腑に落ちない場面

 君の名はの50倍は面白かったんだけど、それは君の名は、を見に行ったのが大ヒットした後で期待しすぎのも込みだと思う。以下気になったことや雑感


ほだか、お前100%晴れる場面何回も見てふつうに受けいれてたのにどうしてひなさんに晴れてほしい?って聞かれた時ひなさんがその前に話した人柱の話に関わらずうんって言えたんや!!天気を変えるなんて異常なことは受け入れるのに、ひなさんがその場面でそれを聞くっていうことにもう少し敏感になってどうして?ぐらいにしとけよ!確かに受け入れたくなかっただけかもしれないが、あの作画の表情は、ただ当たり前のように、天気はそりゃ雨より晴れの方がいいじゃん、のような顔だったけど、ひなさんの体の異変が質問と関係があるんじゃないかと思ってたらあんな顔しなくない??なんなの、ばかなの?それを、やってしまったと後から気付いたから、必死に、警察に追われても逃げるぐらい必死に、追いかけたの?でも違うじゃんね、会った時ただ戻ってきてほしいって言っただけやんね、うーーん。

拳銃の件必要あった!?ただ終盤で懸命にひなさんを追いかけることを強調したかっただけに感じる。後は途中で雷落とす所とか、とにかく、騒ぎが起きてもひなさんたちと一緒にいようとする所を強調しただけに思える。だったら他にありそうじゃん、どうして生身の人間、それも警察という職分を登場させた?

最後に、ひだかはどうしてそんなに実家が嫌だったの!?光追いかけても限界があったから東京来た、って意味が分からないよ!?そんなに平凡、普通が嫌ってことなのか。確かに鉄砲撃ってしまうし、、奥手で臆病な所あるけどカッとなると何でもやるってことなのか。それは勇気なのかな、、でも勇気の範囲は文化とかで変わるから何とも言えないか。むしろ東京沈めて(笑)これが俺たちの選んだ世界なんだ、ここで生きていくんだ、、!って言えるんだからやっぱり自己中心な所はないと変だから、なんだかんだで人物にあまり違和感はないかもしれないな、うん。

(ひなさんかわいい、付き合いたい。近くで凪を眺めてたい。)


Air/まごころを、君に

誰かが呼んでいる。それは自分の声かもしれなかった。でも他の人かもしれない。そう思おうとしたし、思いたかったし、そうやって自分が思っているように思いたくて、それとも思ったのだろうか。少なくともその次元の話でも、もう分からない。一切分からない。それでいいが、それは諦めだ。明らかに、それでも発してしまう。いつも矛盾だ。でもいつも本当だ。本当でいたいが、痛いのは嫌だ。でも本当は痛い。じゃあ今痛くないのなら、本当じゃないのだろうか。真顔で笑いなよ、本当とはそういうものだ。怖くて、それでも手を伸ばす。どこまででも付いて回る希望は、絶望に見える時もある。それでも 希望なのだ。ずっと変わらない。どれだけ数を増やしても、その中にしかないのだから。同じ言葉で書かれても、見た目が違う。言葉も違う。でもやはり同じことを言っている。みんな同じことを言う。思うだけじゃ足りないから。だからみんな自分の言葉で言う。そしてそれを見る。摂る。消化してまた食べる。そういうものだ。そうして生きる、今までも、これからも。どれだけ時代が変わっても、性別も体も何もかも違っても、ずっと同じだ。ずっとずっと同じだ。

サカナクションの6.1が最高だった件と耳が過敏な人はイヤマフを付けたほうがいい説

 昨日、ポートメッセなごやで行われたサカナクションの6.1サラウンドライブに参加してきました。

 すごかった!!!

 音に360度包まれて、低い音は心臓にドシドシ響くし、合唱パートは感極まって涙出そうになるし。本当に何から何まで音がずっと付いている時間だった。しかも光の演出が本当にすごすぎて・・・。映像も中央と左右の円型画面で違うものが映ったり、薄い布を使ったパフォーマンスも目が離せなかった。24曲もやったのに、全然そんなにやった感じしなくて、体感10分ぐらい。若返ったわーい(?)

 セトリのアップ、ダウンテンポの順番が波みたいで、会場に入った時から青色に包まれていたのもあって、海の中?色んな光が差して、すごく不思議な空間だった。相変わらず光の使い方が本当に多種多様で、めちゃくちゃ気持ちを高ぶらせてくれては穏やかにしてくれたりする。ユリイカでモニターの北海道と薄い布の東京の画像(違うかもしれない)に挟まれているサカナクションが頭に残っている。

 言いたいのはここからなんだけど、魚図鑑ゼミナールの方がウキウキになって聞いていた気がする。何でなんだろう・・・と考えていたら、もしかして音圧に耳が耐えきれなかったのかもしれないと今の所思っている。あんなにスピーカーがあって、パートごとに音が別々のスピーカーから出るという、とても贅沢な環境だった。席も中央寄りだった。でも、私は終始音がぐちゃぐちゃに混じって、聞き取ろうとして意識を集中させてもドラムと山口さんの声と、あとたくさんの音、という分け方しかできなかった。音がぐるっと回ってくるのも全然気づかなかったし、あるスピーカーからしか出てない音とかも全然分からなかった。それともいつも静かな環境にいるから、耳が麻痺してしまっていたんだろうか。ユリイカやナイロンの糸、蓮の花、バッハや夜の東側は色んな音が聞こえた。モスの辺りで耳が痛くなって手で塞ぐと、すごくスッキリした音になって、やはりイヤマフを付ければよかったのかな、と少し思った。でも、みんな付けてないし、そのままの音圧が感じられないのも嫌だな、とも思っていた。魚図鑑ゼミナールの名古屋公演は今と比べると小さな箱だったけど、色んな音がよく聞こえて、すごく興奮したのを覚えている。今回はそれを上回るのに、なんだかただごわんごわん耳に響いた音の塊しか思い出せず、少し悲しい。何回かこれ以上音圧上がったら息できない、と思う時があったんだけど、私だけなのかな。

 夜の踊り子やミュージックへの流れ、からの新宝島アイデンティティの部分は最高に飛び跳ねて楽しかったし、どの曲も自然に体が動いてそれもなんだか不思議だった。セトリが後半に行けば行くほど、もっとやってほしいと思うのも不思議だった。繰り返しの音に聴き慣れると、今度はそれをいつまでも聞いていたいような気持ちになる。

 次からはちゃんと耳栓持ってこ・・・。ちなみに私が持っているのは下のようなやつなんだけど、シリコンだから圧迫感はわずかだし(といっても慣れるのに少しかかるかも)サイズも色々ある。今の耳栓すごいね。

 

 

 

人工知能を怖がるのなら人を怖がれ

 

改訂新版 ロボットは東大に入れるか (よりみちパン! セ)

改訂新版 ロボットは東大に入れるか (よりみちパン! セ)

 

  科学技術によって人の仕事が置き換えられる時代がまたやって来た。特化したプログラムを用いれば大学にも入れる、そして囲碁や将棋の勝負に見るように、必要な項目がプログラムにとって有利な時、その力の前で到底人間は敵わない。だからもう変わらなきゃいけない。本著では、ホワイトカラーの仕事はだいたい機械で代替できる時代が来るという。そうなのだが、ホワイトカラーの仕事をする人々を大量に作り出したのは一つ前の時代であり、また前の時代がそうなったのは、単純作業が必要な人間が大量に必要だったからだ。技術の進歩はいつも社会の変化のスピードを上回るのだから、もうそれは仕方がないとして、いかにそれに付き合うかをそろそろ考えなければいけない。機械で同じ商品がたくさん速く作られ、職人技といったものが減った、そうして科学技術は、人間の持ちうる能力の活かす領域を確かに限定している。しかし、それをしたのは人間なのだ。もっと安いものがほしい、たくさんの人がそう思うから、それをやろうとする人が出てきて、実際にそういった世の中ができてくる。確かにヒトをもってしても、もしくはその分際で起こり得ることのすべてを予測できるわけがない。ナチの暗号を解いた時、パソコンなるもので全世界が繋がることを予測できた人はほとんどいないだろうし、きっとそういうことがたくさん起きているのだろう。それでも、分かろうとする努力をしなければいけない、人間はもうその段階まで来ているのだ。それはずっと前からそうかもしれないし、しかし今も、変わりなくそうであることが何より重要だ。人工知能を用いると何ができるか何ができないかを知ること、人工知能の方が得意な領域があったらそれをする人間を育てる必要がなくなる(学校で教えられたことについて人間の方が劣るのなら、学校の仕組みや意味合いを新しく合わせなければいけないだろう)のでその代わりにその時間に何をするのか、そういったことに取り組むことが、本当に大事なのだ。

 プログラムを使うのは人間であり、使われるのも人間だ。だから、どのように使われているか、どのような用途で使われているか、少しでもそれについて聞こうとする気持ちがなければ、これからますます甘い言葉に釣られたり、よく分からない内に何かを取られたりすることになるのではないか。

「愛がなんだ」見てきました

 すごいなあ。エンドロール、役名がなくてただ俳優さんたちの名前が載ってただけだったの、なんでだろ。

 なんかあの、言葉が全体的に少ない感じというか、すみれさんが唯一よく話して、あ、ようこさんもそうか。どんな言葉なら出しても大丈夫かをみんなちゃんと分かってるような、でも言葉はやっぱりふらふらしてて、なんだかんだ時間だけ過ぎていく。あれは、確かにどこかで愛とか恋だったんだ。でも、その形のままでいることは叶わなくて、少なくともそんな気持ちを持ち続けたら自分がだめになっちゃうから、相手の傍にいたいっていう根底の上でだめじゃないように自分を支えてるからやっぱり変になっちゃうんだけど、だからとことんだめになってしまうわけでもなく、何とか生活しながら、好きな人からの連絡をハラハラしながら待ってる。

 これは映画だ!っていう謎の、といっても地震でいう初期微動ぐらいの気持ちだけど、が起こった。前にアベンジャーズ見たからだろうけど、どのコマでも誰かがかっこよくキメてるか和ませてくれるかみたいな感じだったから、全然違うってもっと思えたのかもしれない。ものすごく人間のままの姿でキャラクタ―達がいて、前と言ってたこと違うじゃん、の領域が、相手によって左右されてしまう類のもので、その人自身は気付かないし、見つめている人は気付くけど視線の先の相手が好きだから、何も言えない。し、何も言わなくていいとも思っている。この視線たちの交わり合いは、そこら辺の日常でもぜったい存在しているものだ。

 愛がなんだ、ってタイトル、いいな。決まったイントネーションなんて欲しくない。